11月29日(火)--以下時刻はバリ時刻
♠ 今朝の食事も、ホテルのグランドフロアにあるビュッフェで、軽く済ませた。9:00にガイドが来て、きょうのコースを打ち合わせる。
♠ こちらの要望として、ガイドブックで見つけていたバタフライパークと、棚田が見事に拡がっている所、この2つと、17:30頃には日本語補習校で降ろしてもらうことを必須条件にして、コース、食事、寺院見物はガイドに任せた。
バタフライパーク
♠ ガイドブックにチラリとこの名前が書いてあったので、とても気になっていた。バリ島の中南部、少し標高の上がったタバナン地方ワナサリにこのテーマパークがある。入場料は2人で100,000ルピア(約870円)。
♠ 中に入った時、ちょうど私達と一緒に入った白人の夫人が、私と全く同じカメラを持っていて、お互いにニヤッと笑ってしまった。少し英語で話したが、オランダから休暇でご主人と一緒に遊びに来たのだとか。そのご主人の体に、公園の職員がコノハムシなどの仲間を体に付けていたので、早速夫人がそのカメラで写していた。
体にコノハムシ、コーカサスオオカブト、ナナフシの仲間を付けられた人
♠ そのすぐ先に標本室があり、6つの標本箱が並んでいて、そのうちの4つの標本箱には90頭のチョウ、1つにはカブトムシやクワガタムシなど大型コガネムシ系の仲間が30頭ほど、そしてもう1つにはカミキリムシの仲間が40頭ほど整理されていた。
♠ 私がその標本に見とれていると、隣の室内で私の妻が、帽子や体に大きなガやチョウを付けられていた。このようなサービスには若干疑問を感じたが、写真に撮った。
帽子にヨナグニサン、体にキシタアゲハの仲間を付けられた妻
♠ 園内のネットの下には、トリバネアゲハ、モルフォチョウなど20種程度のチョウが思い思いに飛び交っていて、ほとんど停止しないのでなかなかカメラには収まってくれない。よく動き回る時間帯というタイミングもあるのだろう。
ライステラス(棚田)
♠ バタフライパークを出たあと、さらに北へ向かう。やがて道路がくねくねと蛇行しながら標高を上げていくと、巨大な稲作地帯に入る。ジャティルウィとはインドネシア語でJatilu(とても)wih(きれい)という意味だそうである。一面の棚田の所々に、休憩したり食事を摂ったりする小さな出小屋がぽつぽつと建っている。
♠ 谷の底の方から山の頂上の方まで棚が作られていて、「耕して天に至る」と言った中国の革命家・孫文が表現した言葉を思い出した。日本の千枚田や田毎の月を思い起こすが、ここではコメが2毛作、3毛作で採れ、田んぼによっては田植えをしているもの、稲刈りをしているもの、稔り始めているものなどが同時期で混在している。ここで、少し雨が降ったがすぐに止んで、その後は降らなかった。
ジャワルティの棚田(谷方向)
ジャワルティの棚田(山方向)
パチュンの恐ろしいレストラン
♠ ジャワルティの北東方向に、棚田を観ながら食事の出来る所があるというので、パチュンの集落に回る。レストランまで行って驚いた。かなりの傾斜地に、崖下の方から薄い板のような木材でやぐらを組んで、上の方にステージを張り、食卓と椅子を多数載せて、その分の人が大勢乗って食事をしている。
清水寺の舞台も顔負けのレストラン・ステージ
タマン・アユン寺院
♠ おそるおそるの食事の後、車で20キロほど南下して、ムングウィ地方のタマン・アユン寺院に行く。ここは昔、バリ島にあった8つの王国のひとつ・ムングウィがあったが、19世紀末に滅ぼされ、今は県の名前にも残っていない。
♠ しかしタマン・アユン寺院はバリ島で2番目に大きな寺院である。1634年に建設され、1937年に改修された、掘割に囲まれた庭園寺院といえる。
タマン・アユン寺院の正面
日本語補習授業校
♠ 時間的にはかなり早かったのだが、渋滞にぶつかると日本語補習授業校の約束時間に間に合わなくなりそうだというので、タマン・アユン寺院を15:30頃に出発。しかし意外とスムーズに走って、16:40少し過ぎに学校に到着した。
♠ 先生の一人が産休のため、NS先生が代講しておられるということで、事務担当の方の案内で、各教室を廊下から見学させて頂いた。ここはこのバリ島に住む日本人の児童・生徒に、日本語を忘れないように補習・補強することを目的として、日本人会で運営されている。子供達は現地の小・中学校で学んだ後、週に1ー3回、16:00頃に登校してきて、「日本人」として勉強しているそうだ。国語主体で、算数・数学なども勉強するとか。最近は1歳以上の未就学児も預かるようになり、中・高生も勉強室代わりに使うために何人かやって来るとのことで、現在の在籍は300名を超えているそうだ。
♠ NS先生が戻ってこられてから、先生が宿泊しておられるホテルに一緒に行き、夕食を頂きながらバリ島における日本人会や、学校の話をいろいろと聞かせて頂いた。そのあとタクシーでニッコーホテルに戻った時、22:00頃だった。