ブータン訪問記・1・国土、歴史

 私とブータンとの出会い
 私は小学校6年生の時(1953年)、イギリス探検隊のエドモンド・ヒラリーが、地球の最高峰・エヴェレストに初登頂したというニュースに接した。私にとってそれを快挙と思い、ネパールの名前と、地図上の位置を確認した。その時に、すぐ近くにブータンという謎の小国が存在することも知った。
 両国中国(チベット)とインドとという大国の間に位置し、
ネパールには、標高8,000メートルを超える山が、エヴェレスト含めて14座があって、ヒマラヤの高峰登頂のメッカとして、専門の案内人(シェルパ)を養成するなど、観光地として栄えている。

 ブータンは南北の強敵からの侵略から国を守るため、南北の自然の要害を利用して鎖国政策をとり、かつ国内の各種民族をまとめあげていた。

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           ブータン国旗(「竜の国」を意味する)

※ ブータンの国土
 ブータンは、北はヒマラヤ山脈という天然の要害を経て、チベット(中国)と接している。中国との国境線は、1998年に、1959年以前の境界で合意していたはずだった。
 独立当初の国土面積は46,500k㎡であったが、北部のガサ県では2006年以降中国が一方的に山脈の南側山間部へ国境ラインを引き、道路建設や人民の定住を始めた、目的はこの地域で多く産出される貴重な漢方薬・冬虫夏草の独占にあると推察されている。
 このため中国とは正式な国交はなく、1998年の国境線合意も守られていないが、他国との争いを好まない第4代国王は、中国(チベット)によるガサ県北半分の侵略を黙視した形をとっているため、
現状では国土面積は実質38,400k㎡になってしまった。これは日本の九州とその島嶼部を含めたものと、ほぼ同じ面積である。
 ブータンはチベット仏教の影響を多大に受けているが、今は国王とともに、宗教上の最高位の聖僧があがめられている。ただ別格として、インドに亡命しているチベット仏教の最高位・ダライ・ラマ14世を尊敬している。しかし数世紀前のダライ・ラマは、ブータンに侵略してきたこともあるとか。北インドとは緩やかな山脈を境としていて、国境はややあいまいではあるものの、今のところ紛争には至らず、穏やかな国交がつづいている。
・     黄色部分が国境不明確部分。(実質はガサ県の北半分)
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  現在はヒマラヤの尾根谷ごとに20の県(ゾンカク)に区分けされ、それぞれにゾン(城、砦)と呼ぶ僧院・兼・県庁舎があり、国王の別邸を備えているものもある。また、ブータンではヒマラヤの各峰を「仏の居わす場所、仏教聖地」として、標高5,000メートル以上を登頂禁止にしている。だから、ブータン中央北部にそびえる最高峰・カンカル・ブンヌム(7,570m)は、現在も未踏峰として残っている。
 首都は西寄りのティンプー県(市)にある。地形の都合で国際空港は西隣の谷間のパロ県にある。国内空港は現在3カ所ほど建設中と聞いた。
 国内の総人口は68万人強。うち約10万人が首都ティンプーに集まっている。

※ ブータンの歴史
  紀元600年前後には、ヒマラヤ山脈の南側支脈の各谷間に、ネーパル系及びチベット系の少数民族がばらばらに居住し、地理的な条件でまとまりがついていなかった。
 1,600年代以降、内紛とイギリスの干渉もあって不安定が続いていたが、この間、ブータンの僧侶の代表者と庶民の代表者の二頭体制でなんとか政治を運用していた。その後チベットに限らず、清国やロシアまでが干渉を始めたため、イギリスが1907年までにこの干渉を排除、またブータン国内の内乱を鎮圧した。
 1907年に僧侶の代表者と庶民の代表者が退き、代わってトンサ群の領主ウゲン・ワンチュクが近代ブータンの世襲制初代国王となり、鎖国制度でまず国内を固める。
 1926年に第2代王が継承。鎖国を解き、インド・ブータン条約(英語版)に調印。
 1952年に第3代王が就任し、徐々に民主化を進めた。1971年に国連に加盟。1972年に第3代王が急死すると、息子がわずか16歳で第4代国王として就任。数々の民主化政策を推進して、絶対君主制から立憲君主制に移行。2006年に息子に第5代国王として譲位。
5th_4th-King-600_400     第5代国王ジグミ・ケサル・ナムゲ・ワンチュク(左) と 第4代国王(右)
 2008年3月、国家評議会(上院)、
国民議会(下院)の選挙を実施。4月には初めての民選首相を任命。7月18日に新憲法施行。
 2011年、75年の間行方不明だった珍蝶のブータンシボリアゲハが日本の調査隊によって再発見され、ブータンの国蝶とされた。
 2013年7月、普通選挙による国民議会選挙を実施。野党が勝って政権交代した。

※ ブータン王国と日本との関係
 ブータン王国は鎖国解除後、絶対君主制として1971年に国連に加盟した。1989年2月24日、第4世国王がわずかの供を連れ、昭和天皇の大喪の儀の礼に参列。他国の弔問外交盛んな中で、そのまま帰国されようとした。マスコミに理由を尋ねられると、王は「私は日本国天皇へ弔意を示しに来たのであって、金を無心しに来たのではない」と答えた。そして自国内で、1か月間も喪に服されたという。
 2005年に立憲君主制に移行し、翌2006年51歳の時、26歳の長男(第5世)に譲位。2011年11月、第5世国王が、日本の東北地方の津波被害地を見舞い、国会で「被災者たちが互いに助け合って前向きに歩こうとする姿は、ブータンでの互助精神と共通する」と、日本人の旧来の互助精神等に触れ、日本の国民性をほめる演説をした。

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