ご無沙汰回復の旅-1 会津若松

 終活の一環として、先祖の墓参りやご無沙汰している人たちに会うため、妻と二人で10月22日から25日にかけて、東北から関西まで旅をしてきた。

※ 10月22日(日)
 5:30起床。新千歳空港外の駐車場に車を預け、送迎バスで空港へ。台風21号が猛烈に発達しながら九州の南に進んできているため、千歳では前線が刺激されてかもう雨。
 JAL2900便は予定通り出発したが、仙台空港にはやや遅れて着陸したため、予定の鉄道・アクセス便と東北新幹線はそれぞれ1便遅れた。郡山からの磐越西線は予定通りの便に乗れたので、駅弁を買って車内で食べ、雨の会津若松駅には12:59に到着。
 駅前の案内所で、私たちの行きたい先を言うと、「まちなか循環バス」1本で乗り継いで行けるという。30分ピッチ程度で走っているのでそれに乗った。最初は歴代の松平藩主が愛したという御薬園の近くにある我が家の菩提寺・井上浄光寺に向かう。御薬園近辺のバスコースが工事中のため、外れた場所で降ろされ、少し迷ってお寺に着いた。
  予告していなかったのでお寺は留守。電話をかけると住職の夫人の携帯電話に転送されて、我が家の墓所の位置を尋ねる。指定された場所に確かにあり、家紋と、墓標裏に彫られた祖父の名前を確認してお参りした。質素ながら、白御影で作られていた。
 その隣に、我が家と同じ家紋の別姓の墓標が並んでいたので驚いた。何らかの関係があるのだろう。後日住職に聞いてみよう。庫裡の郵便受けにお布施を入れて出発。
 御薬園にも行きたかったが、雨が止まないので、飯盛山(いいもりやま)へ行くことにした。相変わらずバスの乗り場が分からないためタクシーを止めて乗車。応対の丁寧な運転手の案内で、「雨で大変だから」と、飯盛山の登山口まで入ってくれた。
 この飯盛山には、私が卒論の課題
のひとつに選んだ「栄螺堂(さざえ堂)」がある。日本で唯一の木造・螺旋昇降式搭堂で、妻にもぜひ見ておいてほしかった。内部は右回りの1.5層で最上部まで登り、最上部で反対側に渡って今度は下降して、最後は裏側へ出るため、動線がぶつからないという二重螺旋形式になっている。
 建物名は「円通三匝堂」。回廊軸部には仏壇がしつらえられていて、それぞれ33体の観音像が祀られていたというが、今は開基の僧・郁堂の像が入口正面にあるのみ。   仏教思想の右へ3回巡るという「右繞三匝(うにょうさんそう)」の基本に基づいており、卒論提出の時に、貝のさざえの殻をタテに挽いて半分に割ったものと、さざえ堂のスロープの動線模式図を作成して研究室に提出した。もう50年前になる。
 このように参拝者の動線が交わらないように、33体~100体の仏像を参拝できるようにした堂宇は、東北から北関東まで6棟ある。いずれも江戸後期から明治初期に建てられていて、いずれも参拝者の動線がぶつからないように工夫されているのだが、二重螺旋式の参拝通路にしてあるのはこの会津若松のさざえ堂のみである。

 帝国ホテル旧館を設計し、1923年に完成させたのはアメリカのフランク・ロイド・ライト。彼がニューヨークで設計し、1949年に完成させたソロモン・R・グッゲンハイム美術館は、独特の螺旋式美術鑑賞ホールを持っている。彼は1917年に来日して日本の各地を歩き、帝国ホテルに使用する石材から調度品に使う木材の選定に至るまで、徹底的に管理したという。その際にこの会津若松のさざえ堂を目にして、螺旋ホールの発想を得たということも考えられるのではないか。
 さざえ堂から出ると20名ほどの観光客が集まっていて、雨の中、傘を差しながらガイドの説明を聞いていた。このすぐ下には、白虎隊の戦士が鶴ヶ城の焼け落ちるのを見ながら、自刃した場所がある。しかし雨がひどくなってきたのでパスした。
 タクシーで会津若松駅に戻り、東横インにチェックインしてから、駅で切符を買っておこうと「みどりの窓口」へ行くと、明日の午前中の磐越西線は、台風の影響のため始発から運休とのこと。新宿までの高速バスは走るというので発券してもらい、早めの夕食を近くのラーメン屋で済ませてからホテルに戻った。

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