ご無沙汰回復の旅-3 神戸

※ 10月24日(火)
 藤沢の東横インで朝食を済ませ、妻はもう一人の友人に会いに行き、私は以前住宅を建築した時にお世話になった人に、現在の彼の現場を案内してもらった。彼には、15年程前に、奈良県生駒市の従兄の自宅の耐震診断に同行してもらったことがある。
 そののち妻と合流し、
藤沢駅から横浜駅経由で新横浜駅へ。ここで駅弁を買って東海道新幹線のぞみ31号(12:29発)に乗車。新神戸までわずか2時間25分。その昔、SL特急の「つばめ」が東京=大阪間を7時間30分で走って目を丸くした時とは隔世の感である。
  新神戸駅には定刻の14:54に到着。聞いていた「らんぷミュージアム」をタクシーの運転手に告げて10分程で到着。2階の洋装品店で待ち合わせをしていた婦人に会う。

 この婦人は、私の両親の仲人をしてくださったご夫妻の長女で、ことし90歳。私が8歳と20歳の時に神戸を訪れて会っているが、それ以来55年ぶりの再会である。
 今回の訪問を前にネットで調べると、彼女は神戸のファッション業界の重鎮で、森英恵さんに続いて、20年前に女性としてパリコレクションにオートクチュールを出品している。個人的には市内にファッションショップ「マーガレット」を経営しており、今回待ち合わせた店”SOL DE SOL”は、この婦人が可愛がっている女性Kさんが経営している。
 来年、婦人の90歳長寿記念、マーガレット開店50周年、そしてパリコレ出展20周年のけじめとして、仲間たち20名ほどで、パリでお祝いしてくれるのだという。
 相手が私のことを昔通り”マー坊”と呼ぶので、私もつい”お姉ちゃん”
と呼び合っていること気づき、お互いに苦笑いをした。そのお姉ちゃんがよく行くという料理店の個室でKさんも含めて、フランス料理をごちそうになった。
 そのあとは、Kさんの車でポートピアを案内していただき、夜景やメリケンパークの淀川長治氏を記念したメモリアルアートビレツジを楽しんだ。
   この石碑は、昭和62年(1987)に映画記念碑を建てる会によって建てられた。中央部分を四角く切り抜き、スクリーンにみたてた石碑の前には、客席のように石が埋めてある。この石には、淀川長治氏が選んだ国内外の映画スターの名前が、一人ずつ刻まれている。お姉ちゃんもダグラス・フェアバンクスの名を刻んだ石に出資したとか。

※ 10月25日(水

 前夜、神戸市営地下鉄の湊川公園駅前の東横インに宿泊。朝食をいただいた後、早めに出て地下鉄で1駅の大倉山公園へ。ゆっくりとした坂道を上ると、ゆったりとした樹々の間にゲートボール場やテニスコートがある。ブラタナスの樹も多く、実も落ちていた。
 後から来てくれたお姉ちゃんを出迎えて公園の一番奥へ向かうと、小高い広い丘の上に、「神戸空襲を記録する会」が発起して建ててくれた「いのちと平和の碑」があった。
 石碑の裏側にはステンレスの銘板がはめ込まれており、毎年判明した犠牲者の氏名を追加で彫り込んでいるという。私の母と弟の氏名が刻まれているのを確認できた。
 以前、私がこの件についてブログにアップした時、藤沢で親しくして頂いていた婦人のお父様も同じ空襲で亡くなられているので、確認してほしいと言われていた。今回はその方のお名前も確認できたので、写真に撮って帰宅後にお送りした。

 3人でこの石碑にお参りを済ませてから、タクシーで三ノ宮駅近くの”西村珈琲”へ行ってサンドイッチとコーヒーで昼食をいただく。ここでお姉ちゃんと分かれ、駅前から高速バスで直接関西国際空港へ。定刻の15:40発JAL2505便で無事に帰郷・帰宅。
 お姉ちゃんは独身を通して両親を見送り、車のメカニックの世界で名を上げ始めていた弟を20年前に亡くした。妹が2人居るが遠く離れて暮らしている。私たちが帰宅した後は、頻繁に電話や手紙でやり取りするようになった、あの前向きの元気さから見ると、私たちも元気をもらえて、だらだらしては居られないという気にさせられる。

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