北海道胆振東部地震

9月6日(木)
 未明の03時08分、枕元に置いてあるスマホからけたたましい警報音が鳴って目を覚ました。同時に結構な揺れがあって、常夜灯が消えた。すぐに治まったが、久しぶりの大きな地震だった。ただしその後、10分に1回ほどの体感余震が続く。
 間もなく夜が明けたが、電気が来ないので何の情報も入らない。ただスマホが生きていたので、しばらくは子供達との連絡や、親しい人たちからの心配のメールや電話が入って、それらへのやり取りはできていた。しかし、それも9時過ぎには中継局で途絶えた。
 新聞の朝刊は、地震の前後に配達されたものらしく、当然今回の地震の記事はない。4日の台風21号の関西での被害と、5日の北海道内の被害が記載されていた。
 10年程前まで使っていた小型ラジオ用の電源用単2乾電池は在庫なく、商店でも2本買えたのみで困っていたが、お向かいの奥さんに声を掛けられ、予備の2本を分けて頂いた。おかげで情報が入るようになり、無音の不安は解消された。
 断水になるという情報もあったので、浴槽と洗い桶2個を満水にしておいた。幸いに断水にはならなかったが、トイレは水を流すのがリモコン式で、受信側の便器が電池式でなく、停電のため応答・流水がないので、洗い桶の水で流さざるを得なかった。
 私のスマホの電池残量が危なくなったので、娘の自宅まで行って、車のシガライターから充電させてもらった。15%⇒100%まで2.5時間かかり、アイドリングに気が引けた。
 新聞社も停電で、夕刊の配達はないだろうと思っていたが、それでも4ページ1枚の夕刊が届けられ、震源地付近の被害の写真を見ることができた。

9月7日(金)
 昨日は、停電に備えてLEDライトや蝋燭類を集めておいた。しかし暗くなると何もすることがなく、暗闇でラジオを聴いているだけなので、7時には寝床に入り、導眠剤を服用して8時には眠った。ただ、ここ1年程使用している睡眠時無呼吸症候群の呼吸補助器は、電気が来ないため使用しなかった。
 今朝の新聞で、震度が不明確だった厚真町で震度7(昔は「激震」と言った)だったと報道され、ラジオでは阪神淡路大震災の震度7の倍近い揺れだったと報道していた。
 朝、娘と夫が歩いて様子を見に来てくれた。「運動がてら」と言ってはいたのだが、その配慮が嬉しい。また息子も妻も、妻の父親も、可能な限りで情報をくれている。
 今日は菜園を整理し、時々ラジオを聴いていてあまり出歩かなかった。今回の地震では、自宅付近の震度が「3」程度で、ほとんど物が倒れなかったことは、幸いであった。
 また近くのスーパーやコンビニでは、生鮮食品ばかりか、インスタント麺やレトルト食品、そして缶詰の棚などのほとんどがカラになっていると娘からの伝言。
 我が家はある程度の食糧備蓄があったので、その点は助かったのだが、停電によって冷蔵庫が機能せず、まずは昨日からそれらの始末を始めた。サブの冷凍室に入れておいたアイスキャンディーが袋の中で溶けていたので、コップに移して食べた(飲んだ)。また製氷機の氷もすっかり溶けて水になっていたので、捨てた。
◆ 
厚真町では、なだらかな丘陵地帯が平野部に落ち込むあたりで地滑りが発生し、その線状の地帯に建てられていた住宅の多くが飲み込まれて、30名近くの安否が不明とか。
 前夜はローソクの灯とラジオのみが気持ちの支えになっていた。ただラジオで、停電の復活の際、今回のような北海道全道295万戸の停電という状態で、いきなり配電を復活させると、電圧が不安定になって放電・火災になることもありうるので、暗いうちに配電盤のブレーカーを落としておき、復電したときに徐々に入れてほしいと伝えていた。
 それを聞いて、自宅でも大元のブレーカーと、居間のブレーカーのみをONにしておき、あとはOFFにしておいた。18時には真っ暗になったので、あきらめて寝床に入った。退屈なので、妻と他愛のない話をしていた19時10分ころ、居間の電灯が点いた。
 また起きて、室内や電気関係の点検をし、TVを点けた。どの局も、地震のニュースであふれていた。いずれも驚くべき状況になっていた。震源が、苫小牧市や厚真町を含む胆振(いぶり)支庁内陸部の東部で、地震の名称が『平成30年北海道胆振東部地震』と名付けられとか。深さ37キロ、震源の厚真町で震度7、札幌市北区でも震度5強だった。

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