新道建設と山崩し

 私が現在の場所に初めて住んだのは1960年のことであった。当時の国道1号線(東海道)は、横浜の戸塚方面から遊行寺の坂をくだって藤沢橋を渡ると、ちょっとした小山に突き当たって左右に分かれていた。左に南下すると江ノ島方面に向かい、逆に右に曲がると西へと延びる旧東海道であった。
 この小山は雑木と笹薮の砂地の山で、当時は小学校と墓地がある以外はぽつぽつと住宅が建っている程度であった。この頃から国道1号線のバイパスとしてこの小山を縦断し、辻堂の海岸まで通ずる新道が建設されていた。今、毎年正月の箱根駅伝の選手達が走るあの上り坂である。
 1960年ごろの正月三が日には生産活動もストップするので、真っ青に晴れ上がった西の空には白い富士山がそびえ立ち、思わず「日本人」を意識したものである。またほぼ5キロ南には江ノ島がこんもりと見えて、夜は山頂の灯台の明かりが規則的に光を放っていた。25年前でも、夏には茶の間に居ながらにして江ノ島海岸での花火大会を眺めたものである。

1-FujisawaBridge020921藤沢橋より西、新道方向を望む

 しかし周囲に残った砂山はみるみるうちに開発され、ヒバリ、ウグイスやカブトムシ、カマキリ、バッタ類がうるさいほど居た環境はすっかり変わってしまった。当時の面影は小学校の裏手の斜面と、今も残る墓地のあたりにほんの少し残っているにすぎない。
 ちょうどこの小山と江ノ島との間には3本の鉄道が集まる藤沢駅があり、東京駅へのターミナルになっているため、次々と高層マンションが建ち始めて、灯台や花火はおろか江ノ島そのものが全く見えなくなってしまった。
 一つ北側にあった小山も、当時は一軒のお屋敷が所有していて、ご主人が広い芝庭でゴルフを楽しんでおられたのを覚えているが、今はすっかり開発されて、公共建築物(労働会館)が建っている。以前この小山越しに見えていた富士山も、やはり建物の陰になって、見えなくなってしまった。
 こうして40年余り前に崩された小山は交通の要衝となり、周辺の景観をがらっと変えてしまうきっかけになったのである。

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