神戸大空襲 いのちの記録

 先週末に、いま神戸市に住む従妹から、3月17日付けの神戸新聞を送ってきて、神戸の空襲で亡くなった人たちの名前が載っているが、私の母と弟の名前が漏れていると言う。新聞には昭和20年の3月17日、5月11日、6月5日の大空襲を含む数回の空襲があって、8,800人以上の市民が犠牲になったという。正確な数値は、まだ分かっていない上に、行政は人数やその氏名の発掘については、殆ど目を向けようとはしないという。

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 「神戸空襲を記録する会」についての記事 (2009年3月17日 神戸新聞から)

 当時の記録を少しでも発掘しようと、「神戸空襲を記録する会」が30年以上も前から、薬仙寺の過去帳等を調べ、さらに2005年から神戸新聞社が学校史、兵庫県警史の記載などを上乗せして、やっと1,039名が判明したとなっている。判明した中には、愛称や「○○さんの母」などというものもあるが、とにかく個人を特定はしている。同会は消極的な神戸市に対し、名簿作成や名前を記した碑の設置への協力を求めると共に、名簿への新たな登録を募っているという。

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 当時神戸市内で空襲を受けた地域 (2009年3月17日・神戸新聞から)

 私は6月5日の空襲で母と弟を亡くした。この日、父は広島県の呉に単身赴任中で、私自身はちょうど来ていた母方の祖母に背負われて逃げ、無事であった。しかし母は、生まれて間もない弟を布団に包んで抱きかかえ、はだしで逃げたのだが、祖母とはほんの十数秒の差で焼夷弾の直撃を受けてしまった。
 私は「神戸空襲を記録する会」の代表宅に連絡をとり、登録用紙をファックスしてもらうと同時に、私の祖父(父の父)がこまめにまとめておいてくれた当時の電報、手紙、公文書などから母と弟の記録をまとめた。これらの記録を見直すことで、当時の社会情勢、両親や祖父母の苦労や深い愛が蘇ってきて、思わず目頭が熱くなった。登録用紙の裏に、これら記録から分かった空襲前後の様子を記載して、会の代表に郵送した。知らせてくれた従妹にも、明日同じ物を送ろうと思う。

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