ニセコ方面へ

 朝のテレビ番組で、最近のニセコ方面の賑わいを紹介していた。冬はオーストラリア方面からのスキー客がパウダースノーを求めて大挙してニセコにやって来て、10日から2か月近い期間、スキーを楽しんでいくという。別荘を建築または借り上げて紹介する業者も多く、これからはハイキングと温泉を売り物に、夏の期間も観光客を呼びたいのだとか。建築ブームで、地価がかなり高騰していると説明していた。
 私は高校時代にニセコで昆虫採集をしたことがあるが、妻は行ったことがないので行ってみたいという。急遽思い立って、午前11時に車で出発した。定山渓温泉を通って中山峠に着いたのは12:30頃。峠の茶屋でいなり・海苔巻き弁当と妻がご執心のあげいもを買い、車の中で食べて12:50に出発。なお今回は、テレビで見たようなにぎやかな場所は避けることにした。

DSC04235-540+360 喜茂別町から羊蹄山を望む( 標高 1,898m )

 中山峠を下りるときから、前方には羊蹄山がずっと見えていた。きれいなコニーデ型の火山で、独立峰なので富士山に似ており、蝦夷富士(えぞふじ)とも呼ばれている。山頂は倶知安(くっちゃん)町・喜茂別(きもべつ)町・京極(きょうごく)町・真狩(まっかり)村・ニセコ町の境界である。東のふもとの喜茂別町、京極町は農耕地帯で、牧畜も行われている。アスパラガス、メロン、じゃがいも等を産する。なお京極町は、作家・京極夏彦の出身地である。

DSC04242-540+360 ニセコ連山

 羊蹄山を東から北へ巻いていくと、西側にニセコ連山が見えてくる。主峰のニセコアンヌプリが一番手前に見え、他の連峰はその後ろに隠れている。倶知安町に出て国道5号線を少し南下すると、羊蹄山とニセコ連山との間の谷間に『比羅夫(ひらふ)』駅がある。函館本線の駅であるが、洗濯物を乾してあったりして生活の臭いはするものの、無人駅のようである。駅内の時刻表を見ると、普通列車のみの停車で、1日に上り10本、下り7本である。
 この『比羅夫』の語源は、大和朝廷時代の将軍・安倍比羅夫(あべのひらふ)が、蝦夷(えみし)や粛真(しゅくしん)という先住民族征伐のためにここまでやってきたからという、歴史に因むものだそうだ。

DSC04249-540+360 比羅夫駅ホームの駅名看板

 ちょうど下りのディーゼル列車が入ってきた。2両編成の下り長万部(おしゃまんべ)行きで、駅員の出てくる気配もなく、列車は運転手のみのワンマンカーであった。降車客が1名、乗車客はゼロで、20人ほどの乗客はそのまま次の『ニセコ』駅のほうへ去っていった。降りた中年男性は、駅舎に立てかけてあった自転車でどこかへ消えた。次の『ニセコ』駅は、私が高校生の頃は『狩太(かりぶと)』といっていたが、1964年に知名度の高くなった『ニセコ』に、町名ごと変更したようである。

DSC04256-540+360 13:59発下り長万部行き普通列車が出発.次の下り列車まで3時間

 駅前の無人販売小屋で、わらび20本(100円)と小豆約300グラム(180円)を買った。ここからニセコ連山の間を抜けて帰ることにし、五色温泉に向かった。五色温泉はニセコアンヌプリとイワオヌプリという2つの山の谷間にあり、私の記憶が正しければ、私が50年以上前に泊まった建物が、廃屋のようになって今も残っていた。

DSC04268-540+360 ニセコ五色温泉(昔の建物はこの左後ろにある)

 私は高校1年生の時、生物部の観察旅行でこの旅館に2泊した。そしてニセコアンヌプリ、イワオヌプリに登り、またニトヌプリのふもとにある大沼へ、薮漕ぎをしながら行ったことを想い出した。

DSC04272-540+360 ニセコアンヌプリ(五色温泉より:標高 1,308m)

DSC04270-540+360 イワオヌプリ(五色温泉より:標高 1,116m)

 私が高校生の頃のイワオヌプリは、ほとんど全山むき出しの岩と砂礫の山だったような記憶があるが、今はだいぶ草木が精力を伸ばしてきているようだ。五色温泉はこのイワオヌプリの側の裾にある。このあとこれらの山の谷間を抜け、倶知安町に出て国道5号線を走り、札幌に帰ってきた。途中で夕食を摂り、帰宅したのは18時半であった。

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