渦中を東京へ(2011.03.15~03.17)

3月15日(火)
 4時起床。5時40分発の北斗バスで新千歳空港へ。妻も同行である。まず、バスがすいていることに怪訝な思いを抱いた。そして空港のチェックイン機にカードを通すと、1月に予約を入れたときはクラスJは満席だったのに、空港のモニターではガラガラだった。それでクラス替えをして中に入ると、指定の搭乗口はウソのようにすいている。聞くと、今回の大震災と原発の事故とで大量にキャンセルが入ったらしい。

DSC04568-540_360閑散とした12番ゲート

 予定より早目に羽田に到着し、モノレールで浜松町へ、そしてJR山の手線の内回りで池袋へと、座席に座って行けた。通勤時間帯を外れたのが幸いしたのだろう。JRも私鉄もかなりの運休・減便がある中で、山の手線が減便ながらも走っているのがありがたかった。
 妻は池袋周辺で所用を済ませ、私はある講座のビデオ撮り。時間的には順調に進んで、1講座の収録は17時には終った。夜は指定のホテルで夜半までテレビに釘付けであった。原発の事故の推移も大いに気になるところだし、津波による1万人を超える行方不明者のことも心配である。
 この夜には、22時半頃にホテルの7階に居てギシギシと横揺れを感じ、テレビではこれは静岡県富士宮市を震源とした震度6強の地震だと表示されていた。

3月16日(水)
 ホテルで朝食の後、妻は約束をしていた親友と会うために、動き出した東海道線で横浜へ出かけた。私はまたビデオ撮りのためにスタジオ入りした。昼休みに弁当を食べ終わった12時51分頃またゆっくりとした横揺れがあった。スタジオの担当者は、私の撮影の仕事が17日の昼までになっていたのを、私の帰郷に関して気遣いをして、この16日の夜までで全てのビデオ収録と内容確認とを終えてくれた。
 妻も戻って来ていたので、私の高校同期生で西早稲田に住む友人に電話を入れると、池袋まで歩いて会いに来てくれた。彼の趣味であるデジカメで撮影した写真を、絵ハガキとしてたくさん送ってもらっている。この写真ハガキは、彼がまだ南米スリナムの大使館に勤務していた頃から届いていて、そのファイルが分厚くなっている。彼はその後東ティモールの大使館に転勤し、私たちも訪ねたことがあったが、その後間もなく退官した。
 彼と別れてホテルへ戻った22時過ぎにまた横揺れがあり、今度の震源は茨城県沖とのことであった。11日に発生した宮城県沖のM9の地震以来、これだけあちこちで強い地震が頻発すると言うのは、初めての経験である。宮城県沖、茨城県沖、福島県沖、長野県北部、新潟県中越、静岡県東部と、連鎖している。つい小松左京のSF小説「日本沈没」を連想してしまう。

3月17日(木)
 ホテルを9時に引き払い、来た時とは逆ルートで羽田空港へ。やや混んでいた。新千歳空港への予約便は14時25分発であったが、12時10分発に切り替えてもらった。そしてその該当機体は、最近私たちによく縁のあるエコジェットである。また乗り合わせることになった。これはややすいていた。

DSC04572-540_360a羽田空港駐機中の、JAL523便 エコジェット

 出発時、乗り遅れの乗客を待って10分ほど遅れて離陸した。新千歳空港までの途中、原発のある太平洋岸を避けたような、やや西よりのコースで北上したように思う。機長の説明では、新千歳空港は雪が降り、風も強いので、着陸できない時は函館に降りるか、羽田へ戻るとの条件付飛行とのことであった。

DSC04582-540_360新千歳空港に着いたエコジェット

 しかし予定より30分ほど遅れたものの、無事に新千歳空港に到着した。心配してくれていた娘や息子達に、無事戻った旨のメールを打った。自宅方面へのバスにもすぐに乗れた。結構な量の雪が降ったようで、窓の外の景色は出発の前と比べて重い景色になっおり、雪も降り続いていた。

DSC04584-540_360雪の載ったトウヒ

 バスを降りてスーパーに寄り、自宅に戻ったのは16時であった。私たちが今回東京で体に感じた地震は、2日半で4回であった。テレビでは原発事故について色々の専門家という人たちが解説をしてくれるが、結局は東電の情報をベースにするしかないようで、すっきりと理解しにくい。どこかに不安感が残る。自衛隊の幕僚長の決断で、隊員が放射能に曝されるという命がけの高圧水放射が空と陸上から実施され始めた。これが成功しても失敗しても、彼らの無私の行動には大いに感謝したい。

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