尾瀬 ① 桧枝岐にて (2014.06.21)

 もう21年目となる「尾瀬の会」の誘いを受けた。東京から妻や15名の仲間と共に貸し切りバスで東北自動車道を北上。那須塩原インターで下りて、一路桧枝岐村へ向かう。
 桧枝岐では名の売れた蕎麦屋に入って、私は山菜蕎麦を食べたが、十割蕎麦と称する割には香りがなく、ぶつぶつと千切れ、5センチほどのワラビの茎が10本ほど入っているだけで、残念なものだった。ナメコ蕎麦を頼んだ人も、同じような感想を言っていた。
 食後、地元の若いガイドに桧枝岐村の歴史的な場所を案内してもらった。桧枝岐地方には、平安末期に平家の落人が流れ着き、少ない平地で蕎麦を育てていたとか。この地域には平家を偲ばせる『平野』とか『星』という姓が多く、ガイドの青年も星君、後述する桧枝岐歌舞伎資料館の説明者も星さん。墓地にも『平野』、『星』姓が圧倒的に多い。
♣ 青年の話によると、神奈川県に遠い親戚の『星』姓の人が電気関係の仕事をしているらしい、と聞いた。ひょっとしたら私達が藤沢在住当時に家電製品で色々とお世話になった『星』さんかも知れない。後刻電話をしてみようと考えている。
⇒追伸
 6月末に神奈川県の『星』さんに電話してみた。相変わらずの元気な声を聞いてホッとした。しかし出身は宮城県の南部で、桧枝岐とは関連がないようだ。

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 以前は、少ない平地に蕎麦を植えて主食としていたとのことだが、最近は他の地域から蕎麦が供給されるので、今は米や日用野菜を作っているそうだ。
 畑伝いの道を入っていくと、安宮清水(あんきゅうしみず)がある。説明板によると後白河天皇の第2皇子・高倉宮が尾瀬経由でこの桧枝岐まで落ち延びてきた時、従者が冷たい清水の湧くこの泉を見つけ、宮の渇きを癒したと言われているそうだ。

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 ここは栽培物も多いのだろうが、住宅の周囲や畑の畔に色々の花が咲いていた。

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 畑の一部に、ギヨウジャニンニクが花を付けていた。子供の頃山林に入り、山菜としてよく採取し、茹でては酢味噌和えにして食べたし、最近は春になるとスーパーで栽培もののギヨウジャニンニクを買うのが常になったが、今まで花は見たことがなかった。
 街路に出てから、この土地で江戸時代より270年に亘って「千葉之家花駒座」によって演じられる農村歌舞伎の舞台へ。「檜枝岐歌舞伎」として 親から子、子から孫へと伝承されているという。本来は神に奉納する歌舞伎だが、5月12日と8月18日に檜枝岐の村人を楽しませてきたとか。最近は観光業者の要望で、9月第1土曜日にも演ずるそうだ。
 この舞台に行く途中に、「橋場のばんば」という小堂に巨大な和バサミが2つ祀ってある。一方はピカピカに磨かれていて、「早く(縁が)切れるように」。片方は錆びて鎖が巻いてあり、「切っても切れないように」という願をかけながらハサミを奉納するのだそうだ。見てみると、なぜか磨かれたハサミの方への奉納が圧倒的に多い。

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 舞台は昭和26年に大火にあい、昭和30年に再建されたものだが、国の重要有形民俗文化財に指定されている。屋根が入母屋と切妻を合わせたようで、この付近の曲屋の原型のようだ。農村歌舞伎の演舞も福島県の重要無形民俗文化財に指定されているそうだ。
 この歌舞伎を観る観客席は、舞台前の斜面に石を積んで階段状に組み上げられているので、ローマのコロッセオやギリシャの円形劇場を連想させる。
 資料館の説明を聞いたり、舞台を観ているうちに土砂降りの雨になった。少し小降りになってから、近くまでバスに来てもらって皆で乗り、御池(みいけ)に向かった。

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