※ しばらく更新が途絶えた。遅ればせながら、少々追記をしていきたいと思う。

8月18日 近くの琴似発寒川の川原に蔓を伸ばしたクズ(葛)が花を付けた。神奈川県に居た時も、その辺に生える雑草だった。奈良県の吉野地方では、このクズの根から採取した澱粉を「葛粉」として販売している。澱粉は一般的にはジャガイモなどからも取れるし、片栗粉として販売もされている。
またこの川原にはクルミやオニグルミの樹も多く、西野緑道ではエゾリスやシマリスのエサにもなっており、実の落ちる頃には彼らによく出会う。

🦋 5年ほど前にカリフォルニアオレンジを食べた際、いたずらに鉢に蒔いた種が芽を出して、今年は鉢土から高さ50センチほどになった。やや大きめの葉をつけていたが、7月中旬を過ぎるとナミアゲハが産卵したらしく、6頭の幼虫が着いていて、5齢が3頭、4齢が3頭いて、オレンジの葉をかなり食べていた。
🦋 数年前にも、地植えのサンショウの樹にナミアゲハが10個ほど産卵して孵化し、4回脱皮した後に葉を食べ尽くして樹を枯らし、いずこかへ去った。今年はオレンジを枯らしたくないものの、幼虫の成長を見守るべく、たまたま生花店で見つけた柑橘類の仲間のスダチの鉢植えを見付けて購入し、そちらへ幼虫を移してやった。
🦋 柑橘系の葉を好む幼虫なので、スダチの葉を少し食べた。4齢は全て5齢になり、6頭ともあまり動かなくなってきた。サナギになる準備に入ったのだろうか。ただし5齢目の体長としてはだいぶ小さい。サナギになりきれないかもしれない。
🦋 ほかに、数年前に畑のミツバに着いたキアゲハの幼虫もたくさんいたが、ミツバを食べ尽くすとどこかへ移動してしまった。この7月にキアゲハが飛ぶのをチラリと見たが、今はキアゲハが好むセリ科のミツバ、パセリやニンジンは植えていない。
※ 8月9日、それぞれの幼虫はスダチの葉を食べてはいたが、全て死んでしまった。何が要因だったのかは分からない。スダチは合わなかったのか? Googleで『ナミアゲハの幼虫の食草』で検索しても、スダチを含む柑橘系( ミカン、オレンジ、スダチ、レモン、サンショウ )の葉と書いてあるのだが・・・。原因は分からない。悲しかった。
🌞 今日は、太陽の直射熱がジリジリと上昇し、12時09分に外気温が 40.3℃に達した。
なお、この時の室内気温は27.0℃だった。エアコンを効かせてある。
🌞 2階のバルコニー下の外壁の日陰に掛けた温湿度計から屋内の温湿度計に記録を転送するようにしてあるので、エアコンを効かせた室内の温・湿度と、外壁の温・湿度を同時に見ることができる。屋外の湿度計は気温が35℃を超えると湿度が”Lo”になってしまう。
🌞 この家に住みついてからの外気温で、40℃を超えたのは初めてである。最近は午前10時から午後5時までは熱中症を避けるため、菜園の作業はやめている。この日の札幌気象台で記録した最高気温は、35.7℃だった。気象台と我が家の温湿度計とでは、測定環境の違いからか、気温でいつも3~5℃の差がある。
🌹 1952年、私が10歳の時に父を事故で亡くしてから、73年が経った。妻に生花を求めてもらってきて、花瓶に挿した。
🌹 父は、1945年6月5日の神戸大空襲で妻と次男(私の母と弟)を亡くし、町内会の世話で荼毘に付すと、6月下旬に当時札幌に住んでいた両親(私の祖父母)に遺骨と私を預けると、再び神戸に戻っていった。8月15日の終戦後も神戸で頑張っていた。
🌹 1951年に「お前の新しいお母さんを連れて帰るぞ」と父は言っていたが、単身で札幌に来ると、北海道警察本部に職を得て、祖父母や私と共に一緒に暮らし始めた。普段は極力私と接触することを心がけ、毎週のように私を中島公園に連れ出し、ズックのグローブでキャッチボールをたり、自転車で茨戸湖まで釣りに連れて行ってくれた。。
🌹 無線通信技術者であった父は、警察無線の中継塔を手稲山の山頂に建設する責任者として奮闘し、7月中旬に完成。翌週に部下たちとの藻岩山登山。続いて7月23日には私の夏休み直前の登校の時、自転車の荷台に私を載せて、小学校に送ってくれた。
🌹 翌24日の午後、石狩・オタネ浜での水難救助法の指導訓練の最中に、心筋梗塞を起こした。双眼鏡で沖合200メートルほどの所で盛んに手を振る父を見ていた上司が、”あのくそまじめなやつが盛んに手を振っている。何かあったようだ”と部下たちに命じてボートを出し、父は救助されると「ありがとう、ありがとう」と2回言って意識を失なったまま帰らぬ人となった。
※ その日の午前中に、ぐったりと砂浜に座り、両足を延ばす父の写真が残っている。

※ 80年前の1945年6月5日、神戸市は350機のB29による大空襲を受け、そのうちの一群が住宅地を狙って、焼夷弾をばらまいた。母と弟は焼夷弾の直撃で命を落とした。母は29歳、弟は生後55日だった。3歳の私はちょうど居合わせていた祖母(母の母)に抱かれて町内の防空壕に逃れ、死ぬことなくいま無事に83歳の命を保つことができた。
※ 当時のアメリカ大統領・ハリー・S・トルーマンやダクラス・マッカーサー元帥はじめ、大東亜戦争の指揮にかかわった者たちは、私は絶対に許さない。またアメリカの黒い誘惑に乗って戦争に突っ走った当時の日本の政治家や軍人幹部なども併せ、とうに鬼籍に入っているだろうが、やはり許さない。
※ 私と妻は、毎年この日には花を求めて飾り、静かに一日を過ごしている。あれからもう80年も経つのかと思うと、腹立ちよりもむなしさが襲ってくる。
◎ 9月26日から、2泊4日で尾瀬沼のほとりを歩いてきた。浅草発だから、前夜に浅草に着いて1泊。北千住に親しくしている友人(Y君)が住んでおり、近くではあるのだが、そのご夫妻ともこの頃は体調を崩している。昨年、会津若松の祖先探しをしに来た時に、前夜にその友人と浅草で会っているので、今回はお邪魔するのを遠慮して報らせなかった。
◎ これは私の高校同期の女性(YMさん)が30年以上前から「尾瀬の会」としてずっと企画してくれている小旅行。コロナ禍のため2年ほどの中止があったので、今年は29回目。私は高校の同窓会名簿の同期生で尾瀬沼畔の山小屋を経営している人(NHさん)がいるのを知って、1995年の5月に私達が当時住んでいた神奈川県藤沢市から電話連絡をし、初めて尾瀬を訪ねてみた。
◎ 植物に詳しい人もおり、多い時で40人もいたのだが、多くが高齢化したために楽なコースをとるようになり、若い人達は減った。今回は9名の参加になり、数年前からは浅草から一般の交通(東武日光線、野岩鉄道、会津交通)を利用している。
◎ 9月27日、6:30に起床して、9:20に東武浅草駅に集合。YMさんに出会って、東武線の指定席に落ち着き、前夜にコンビニで買っておいた弁当を食べる。
※ 11月1日から郵便料金がまた値上げになるという。私が社会人になった1967年には、ハガキ1枚が7円だった。その後物価の値上げ、郵政民営化を経て、最近の円安ドル高の刺激によって都合10回目の値上げになった。あれから57年。ハガキ1枚が12倍強の85円になる。
※ 郵政民営化後は記念切手や季節切手、文化財、文化人、国宝、動植物、地方切手、その他国民に直接関係のない海外との交流記念切手などを含めて、1年間に発行される新切手は600種類を超え、とても子供の収集趣味とは言えなくなった。
※ 特に最近はスマホ経由の個人・公共の情報交換が激増して、物品の移動以外の情報のやり取りがすっかり変わってしまった。
🌺 早いもので、私が10才の時に父が亡くなって今日で満72年になった。仏教でいうと73回忌に当たるのだという。妻と、スーパーマーケットの生花コーナーで変わった花を求めて、自宅の花瓶に飾った。名も知らぬ花だが、毎年命日には何らかの花を飾る。
🌺 今年は、庭で咲いたカサブランカ系の黄色のユリに、生花店で求めた花を添えた。父が亡くなったのは42歳だった。手稲山の頂上に警察無線用の鉄塔建設の指揮を取り、その完成直後に、小樽市のオタネ浜での海難救助訓練の指導中に、水温の急激な低下によって心筋梗塞を発症し、近くにいた医師の処置も叶わず、還らぬ人となった。
🌺 父は戦前から日本郵船の海外航路の無線技士を務め、アメリカや南アジアの航海に出ていた。父は水泳は得意だったが、太平洋戦争で2回、乗船していた船が米軍の攻撃によって沈められ、その都度無人島にたどついたり、日本の船舶に助けられたりして命を拾った。私が生まれてからは海が危険だとして日本郵船を退職して安立電気に転職。自宅のある神戸市から呉市の播磨造船所に長期出張して、船舶の無線装置関連の仕事をしていた。
🌺 その後北海道警察無線通信部に職を得て、一時釧路支部に席を置いた後、札幌の北海道警察方面本部に移籍。北海道警察は父の死を殉職として札幌護国神社に祀ってくれている。